この髪を撫でる男の手が優しくて、今となってはそれが好きだったのだろうと思う。
 否、そう言っては語弊がある。好きだったのはその手の優しさではなくて、それを知る事をあの男に黙っている、その事実だった。
 自分がまだ目を開けている時には指一本も触れる事などしなかった癖に、眠っていると気付くや否や、あの無骨にささくれた男の荒れた指先は、ゆったりとシーツの上に滑るこの髪をそっと撫でてたまに口付けた。それから頭のてっぺんから最後のひと先まで、波打つこの髪を静かに辿って、たまにはふ、と微笑む音がした。愚かな男はあの時の自分が本当は寝ていなかった事など気付かない。それが可笑しかったので触れるなと憤る気持ちを堪える事が出来たというものだ。お前が決して俺に見せようとしない部分を、その実、俺は知っているのだと、いつか言ってやろうと目論んでいた。その事実を明かし、それを知った男の間抜けで憐れな阿呆面を、いつか拝んでやろうと思っていたのだ。
(愚かな男め、)
 しかし或る事実をひとつ知った時、その企みは全くの徒労に終わった。


(愚かな男め、お前は本当に、頓馬で、卑しくて、狡猾だ。)



 ざくり、と鳴る音の無機質さは、僅か一部分とはいえ、とても生ける物の欠片を切り落としたとは思えないほど温かみが感じられなかった。そうしてもう一度、ざく、と鳴るそれを繰り返す。ざく、ざく、ざく。躊躇いのないギリシャの右手は華美な宝飾のナイフの柄を力強く握りしめ、左手に引っ掴んだ自らの長髪を次々に薙いで切り落とした。その度にはらはらと落ちてやがて床一面に散らばった茶褐色の髪は、生気を失った艶を放っている。首筋の後ろまでの全てを切り落としたギリシャは、そうして足元に薙ぎ捨てられた元は自分の物であったものの名残を目にして、ぐ、と息を詰めた。長年伸ばした髪は成長の途中にあるギリシャの若い背中を覆うほどの長さがあって、それがなくなった肩は酷く軽かった。
 悲鳴が上がったのは、ギリシャが乱雑に髪を切り落として整えもせず、その姿でナイフを手にしたまま廊下へ飛び出した所為だった。廊下を歩いていた女官はその姿を見て甲高い悲鳴を上げ、慌てて誰かを呼びに行った様子だったが、そんな事はどうでも良かった。向かう先など迷わない。日が沈み炎で照らされる夜の宮殿の廊下の、知ってたる道をギリシャは唇を噛んで歩いた。
「きゃあ!」
 ハス・オダの扉を叩き開けると、ダマスクの馨りがむっと立ち込める寝室の奥で、女を一人はべらせたその男は暢気に煙草など咥えていた。薄着の女はハレムに住む王の妾の一人であったが、必要以上に肌蹴た胸元を慌てて隠すように衣服を直し、何の断りも無い侵入者と隣に寝そべる男の顔を見比べて吃驚している様子だった。然し、同じく薄着でその女がしな垂れるようにカウチに寝転がる男はふう、と吸った煙を悠長に宙に吐いて、
「よお、どうしたんでぃ」
 と、いつもは仮面で覆う素顔を晒したまま、音も無く厭味に笑った。
 悪ぃな、下がってくれ、「体を冷やすなよ」と、トルコは自らの上質なガウンを羽織らせると、困惑に戸惑う女を退室させた。焚かれた独特の香の匂いには慣れていたが、薄暗い室内で二人きりになったところでギリシャはもう一度、正面で佇まいを直し胡坐をかいた男を見据える。咥えた煙草をやっとの事で離した男は、不揃いな髪を乱して突然に現れたギリシャを一瞥すると、うん?と鼻を鳴らし、
「酷ぇ格好だな、んな物騒なもん持ってよ」
と、問うた。
「……」
「その髪、どうした」
「切った」
 ギリシャが右手にずっと握っていた黄金の柄のナイフは、数十年前にこの男から譲り受けた物だった。トルコの問いに答えたそこで、指先の力を抜いてそれを手の内から滑り落とすと、かしゃんと乾いた音がなり、嵌められた宝石に床の石が砕ける音がした。その音にぴく、とトルコは眉根を動かしたが、たが男がしたのは唯、それだけだ。恐らく男が眉を動かした理由も、自分が授けた宝物を無碍にした事ではない。
「そうか、切ったか」
 そして、少し間を置いてそう言った男の表情に、ギリシャははっととして息を飲んだ。愚かな、愚かな、(愚かな男め…!)湧き上がる感情の名を言い得ずに、しかし怒りと云うには余りに淀み静かで、憎しみと云うにはあまりに馬鹿馬鹿しい、その正体を確かめる間もなくギリシャは寂しげに(というよりは、まるで諦めに近い)微笑んだ男の前へと踏み出すと、未だ上質な絹のカウチに身を埋めるように預けたそんな男に、はっきりと言ったのだった。
「抱け、トルコ」
「あぁ?」
「髪は、もう無い。母さんの髪はもう無いぞ、さあ俺を、…抱け、トルコ」
(愚かな男め、お前は本当に、頓馬で、卑しくて、狡猾だ。)
 そうしてお前が静かに撫でた髪など、薙ぎ捨ててやったのだ。この男が指先を絡ませ、愛しげに掻き抱いた褐色の髪には、もう二度と触れられやしない。もう二度と、お前になど母は触れさせはしないのだと、確かにこの時ギリシャが得たのは紛れも無く勝利である筈だった。しかしどうしてか、ギリシャの言葉に無言で顔を上げた男が、では次に何と口にするのかそれを考えるだけで、ギリシャの指先は戦慄いた。お前など、お前など、死んでしまえばいいのだと、心の中で何度も繰り返す。たまらずに堪えたのに溢そうになる涙は、この愚かで狡猾で酷く憐れな男への、憎しみであるに違いない。







「憐れな刃物」/100617/あおえ(judecca)

オッサンは本当にギリシャに母を重ねていてもいなくてもどっちでもおいしい